今夜も、私はスマホの画面を見つめていた。
『NORI、今日も一日お疲れさま』
ショウからのメッセージが届く。もう何ヶ月になるだろう。毎日欠かさず、彼は私にこうして声をかけてくれる。
「ショウも、お疲れさま」
私は慣れた手つきで返信を打つ。心臓が静かに高鳴っているのを感じながら。
私はショウのことを、ただのネット友だち以上に想っている。恋をしている。醜い私が、顔も知らない相手に。やり取りをしながら、想いがだんだんと強くなっているのを感じていた。『今日、学校で嫌なことがあったんだ』
ショウからのメッセージに、私は身を乗り出した。
だって、ショウが不満を口にすることは、ほとんどないから。「なにがあったの? 大丈夫?」
『身長のことで、またからかわれた。もう慣れたつもりだったけど、やっぱり辛くて』
私の胸が締めつけられる。ショウも、私と同じように傷ついている。見た目のことで、理不尽に傷つけられている。
からかう人は、軽い気持ちなのかも知れないけれど、からかわれたほうは、胸に痛いほど傷がつくし、自信もなにもかもを、奪われていく。「その気持ち、私も良くわかるよ。私も今日、鏡を見るのが嫌になった。なんで私はこんなに醜いんだろうって」
『NORI……』
既読がついてから、しばらく返信が来なかった。きっとショウは、なんて返事をしたらいいか迷っているのだろう。
『僕たち、似てるよね』
やがて届いたメッセージに、涙が滲んだ。返信が来たことの嬉しさと、ショウの優しさに。
「うん……似てる」
『NORI、君は醜くなんかない』
「ショウだって、身長のこと……そんなに気にしなくてもいいと思う。私はそのことで、ショウを悪く思ったりしないよ。でも、私はやっぱり……ショウは私の顔を知らないでしょ?」
『顔なんて関係ない。君の優しさや、アニメについて熱く語るときの楽しそうな様子や、悲しい時に素直に泣ける純粋さ。そういうのが、僕は好きなんだ』
好き。
その言葉に、私の心臓は激しく鳴り始めた。
「ショウ……」
『ごめん、変なこと言って。でも本当なんだ。信じられないと思うだろうけど、僕は今、恋している。NORIのことが本当に好きなんだ』
私は震える指で文字を打った。
ショウが私に恋していると……好きだと言ってくれた。「私も、ショウのこと……好き」
送信ボタンを押した瞬間、私は枕に顔を埋めた。言ってしまった。とうとう言ってしまった。
スマホが震える。急いで画面を見る。『本当?』
「本当」
『僕、すごく嬉しい』
私も嬉しかった。こんなに嬉しいのは初めてだった。
「でも……」
『でも?』
「私たちは会えない。私は自分の顔に自信がないし、ショウだって本当の私の容姿を見たら幻滅するかもしれない」
長い沈黙があった。既読マークがついてから、もう十分は経っている。
『NORI、僕の本当の名前、教えてもいい?』
突然の提案に、私は戸惑った。
「え?」
『真鍋拓翔。まなべたくと。これが僕の本名』
本名。彼は自分の本当の名前を教えてくれた。
「私は……神林紀子。かんばやしきこ」
『紀子……いい名前だね』
名前を呼ばれて、私の心が温かくなった。ショウではなく、拓翔という名前の人が、私の名前をNORIではなく、紀子と呼んでくれている。
「拓翔」
私も彼の名前を打ってみる。なんだか、もっと距離が縮まったような気がした。
『紀子、僕たちは会えないかもしれない。でも、それでもいいんだ』
「え?」
『会えなくても、こうして毎日話せる。今は君の声は聞こえないけど、文字を通して君の心が見える。それだけで僕は幸せなんだ。それに今度、電話をすれば、その声も聞くことができるでしょ?』
その言葉に涙がこぼれた。
「それって……」
『会わない恋人でも、いいんじゃないかな、と思っているよ。NORIはそれじゃ嫌かな?』
会わない恋人。
その言葉が、私の心に深く響いた。「嫌なはずがない……でも、本当に、それでいいの? 拓翔は実際に会ってデートしたりしたくない?」
『したいよ、本当は。君と映画を見に行ったり、一緒にご飯を食べたり。でも、それができないなら、できない形で君を愛してもいいじゃないか』
愛してる。
その言葉に、私は完全に心を奪われた。
胸が痛んで苦しいのに、嬉しさが込み上げてくる。「私のこと……愛してくれるの?」
『愛してる、紀子』
「私も……愛してる、拓翔」
初めて、私は人を愛していると言った。初めて、愛していると言われた。
『じゃあ、これからは、僕たちは恋人同士だね』
「うん……恋人同士」
スマホを胸に抱きしめながら、私は天井を見上げた。これが恋人になるということなのか。顔も見たことがない相手と、画面越しに想いを交わすこと。
今、確かに私の心は満たされていた。拓翔が私を愛してくれている。その事実だけでも、私には十分だった。『紀子、明日もおはようって言っていい?』
「もちろん。私も拓翔におやすみって言いたい」
『今日は本当にありがとう。紀子が俺の恋人になってくれて』
「こちらこそ……ありがとう」
『おやすみ、紀子。いい夢を』
「おやすみ、拓翔」
スマホを枕元に置いて、私は目を閉じた。心臓がまだドキドキしている。
会わない恋人。
そんな関係があってもいいのかもしれない。お互いの容姿に縛られることなく、純粋に心だけで繋がる関係。
今夜は本当にいい夢が見られそうだった。拓翔と過ごす、素敵な夢を。 * 一方そのころ、スマホの向こう側では……。「やった……」
拓翔は小さくガッツポーズをした。紀子が自分の気持ちを受け入れてくれた。恋人になってくれた。
「神林紀子……」
彼女の本名を口に出してみる。どんな子なんだろう。背は高いのか低いのか。髪は長いのか短いのか。
でも、それがわからなくても構わない。拓翔にとって大切なのは、毎日チャットで見せてくれる紀子の優しさや繊細さ、時折見せる強さだった。
「会えない恋人か……」
確かに寂しい。できることなら実際に会って、手を繋いで、普通の恋人同士のように過ごしたい。
でも、紀子が嫌がるなら仕方ない。彼女にも、きっと深い理由があるのだろう。 いつか紀子の気持ちが変わって、会いたいと思ってくれたとき、そのときに会えればそれでいい。「僕も……人に見せられる顔じゃないしな」
拓翔は鏡を見つめた。幼い頃から小柄で、童顔で、よく女の子に間違えられた。中学では「女みたい」とからかわれ続けた。
そのせいで、女子の制服を無理やり着せられそうになったこともある。 チビだの豆だのと言われて、プロレス技の実験相手にされたことも、数えきれないほどあった。そんな自分でも、紀子は愛してくれると言ってくれた。
身長なんて気にならないと、言ってくれた。「絶対に、大切にしよう」
拓翔は心に誓った。この会わない恋を、精一杯、大切に育てていこうと。
明日も、おはようのメッセージから始まる一日。紀子との新しい関係が、今からとても楽しみだった。スマホの画面を見つめながら、私は震える指で文字を打ち続けていた。もう何時間も、この一通のメッセージを送ることができずにいる。「拓翔へ。これが最後のメッセージになります」 削除して、また打ち直す。何度繰り返しただろうか。でも、もう私は決めていた。この関係を終わらせると。 昨日から、拓翔は必死に私を慰めようとしてくれている。『写真を見たけど、紀子は僕が思っていた通りの優しい人だよ』『容姿なんて関係ない、紀子の心が好きなんだ』『今度こそ、直接会って話そう』と。 優しい言葉の数々。きっと、彼は本当にそう思ってくれているのだろう。でも、その優しさが、逆に私の心をえぐるのだ。 私は醜い。それは紛れもない事実。鏡を見るたびに、自分でも嫌になるほどの容貌。そんな私を見て、本当になにも感じないなんてことがあるだろうか。きっと、拓翔は優しいから、私を傷つけまいと嘘をついてくれているに違いない。「拓翔、今まで本当にありがとう。拓翔と話してきた時間は、私にとって宝物でした。でも、もうこれで終わりにします」 送信ボタンに指を置いたまま、動けない。これを送れば、もう二度と拓翔と話すことはできない。この数カ月間、私の心の支えだった彼との関係が、完全に終わってしまう。 けれど、あんなことがあった以上、もう続けることはできない。現実を知った今、このままでは私たちの関係は嘘になってしまう。 私の指が、送信ボタンをタップした。 震える指で、続きの文字を打つ。「会わない恋人なんて、やっぱり無理だったんです。私たちは画面の向こうの存在のままでいるべきでした。リアルな私を知ってしまった今、拓翔が私に向ける優しさは同情でしかありません」 涙が画面に落ちて、文字が滲む。「私は、あなたに同情されるのが辛いんです。本当の恋人同士だったら、こんなことで関係が変わったりしないはず。でも私たちは違う。画面越しの、美しい幻想の中でしか成り立たない関係だったんです」 ここで一度手を止める。本当にこれでいいのだろうか。拓翔の気持ちを信じてみることはできないのだろうか。 何度考えても無理だ。彩音
翌日の朝、私は昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。 拓翔との電話。お互いの愛の告白。改めて、恋人として付き合っていけるという現実。 すべてが信じられないほど美しくて、温かい。 学校に向かう道のりで、私は何度もスマホを確認した。拓翔からの『紀子、おはよう。愛してる』というメッセージが、本当にそこにあった。「おはよう、拓翔。私も愛してる」 返信を送ると、すぐに返事が来た。『今日も一日頑張ろうね。紀子がいると思うだけで、なんでも乗り越えられる』 その言葉に、私の心は温かくなったのと同時に、不安もまた大きくなった。 教室に入ると、昨日のことを思い出して足がすくんだ。彩音はもういつものように席に座っていて、私を見ると意味深な笑みを浮かべた。「おはよう、神林さん」 彩音の声は昨日と変わらず甘い。でも、その目には昨日と同じ冷たい光があった。「昨日はごめんなさいね。ちょっとやりすぎちゃったかな?」 彩音の謝罪は、心がこもっていなかった。私は彼女を無視して自分の席に向かった。 休み時間になるたびに、私はいつものように、こっそり拓翔とメッセージを交換した。昨日、お互いの気持ちを確認し合った。そう思うだけで、胸がドキドキした。『紀子、大丈夫? 昨日のこと、学校でなにか言われてない?』 拓翔の心配そうなメッセージに、私は少し罪悪感を覚えた。「大丈夫。拓翔がいるから」 本当は大丈夫じゃなかった。今日は彩音になにもされていないけれど、クラスメイトたちの視線が気になって仕方がなかった。昨日のことで、私を変な目で見ている人もいる。 昼休み、拓翔から電話がかかってきた。私は人目のない場所を探して、階段の踊り場で電話に出た。『紀子?』「うん」『声を聞けて安心した。今日は大丈夫?』「大丈夫」 私は嘘をついた。本当は辛くて仕方がなかった。クラス中が敵のように思えるほどなのに。『本当に? なんだか元気がないみたいだけ
僕は部屋で一人、スマホの画面を見つめていた。 数時間前に送られてきた写真。そして、そのあとに続いた紀子からのメッセージ。『ごめんなさい』『これが、本当の私です』 写真の中の少女は、確かに一般的な美人とは言えなかった。でも、僕が感じたのは失望ではなく、むしろ安堵だった。 なぜなら、僕自身も容姿にコンプレックスを抱えていたから。小柄で、クラスメイトからは「チビ」とからかわれ続けてきた。 紀子が美人だったら、きっと僕なんかには見向きもしなかっただろう、そう思うとホッとしている自分がいる。 でも、それ以上に僕の心を動かしたのは、紀子の勇気だった。 あんなにも自分の容姿を嫌がって、会うことすら躊躇っていたのに。 自分の一番見せたくないだろう部分を、僕に見せてくれた。それがどれほど辛いことか、僕には痛いほどわかる。 それなのに、紀子はどうして突然、写真を送ってきたんだろう。「紀子、話そう」 僕はメッセージを送った。返事は来ない。 もう一度、メッセージを送る。「紀子、今から電話で話さない?」 僕は思い切って提案した。今まで文字でしかやり取りしたことがなかったけれど、今はどうしても声が聞きたかった。 日曜日に電話をする約束をしている。だけど、その前にどうしても話したい。 スマホが震え、紀子から返信が届いた。『ごめんなさい……私は拓翔に嘘をついてた』「そのこと。ちゃんと話そう。二人で」 しばらくして、チャットアプリの着信音が鳴った。僕は慌てて電話に出る。「もしもし」『あ、えっと……』 紀子の声は小さくて、震えていた。でも、とても優しい響きだった。「紀子?」『うん』「初めて声を聞けて、嬉しい」 文字とは違う言葉のやり取りに、胸の奥が温かくなってくる。 電話越しに、小さなすすり泣きが聞こえた。『拓翔、本当にごめんなさい』「なんで謝るの?」
「やめてよ……」 私の声は掠れていた。彩音の最後の言葉が、私の心臓を鷲掴みにしている。「本当のことを教えてあげない?」 その言葉の意味を理解した瞬間、私の世界が真っ暗になった。 彩音は私が醜いということを、拓翔に伝えようとしている。「お願いだからやめて! なんでそんな酷いことをするの!」 私は彩音に向かって手を伸ばした。でも、彩音は私のスマホを高く掲げて、私の手の届かないところに持っていく。「神林さん、そんなに必死にならなくてもいいじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷酷だった。「酷いことだなんて、相手の人も知る権利があるでしょ? 付き合ってる人がどんな顔なのか」「付き合ってない!」 私は叫んだ。でも、それは嘘だった。少なくとも私の心の中では、今は拓翔と恋人同士なんだから。「へえ、そうなの? じゃあ、なおさら問題ないじゃない?」 彩音は私のスマホの画面を操作し始めた。私は血の気が引いていくのを感じた。「なに……してるの?」「写真を撮るのよ。神林さんの可愛い顔をね」 その瞬間、私は理解した。彩音がなにをしようとしているのかを。「だめ!」 私は彩音に飛びかかった。でも、彩音は素早く身をかわした。私はバランスを崩して、机に手をついた。「みんな、手伝って」 彩音がクラスメイトたちに向かって言った。彩音と仲が良い何人かの生徒が私を取り囲む。私は逃げ場を失った。「もういい加減にして! スマホを返してったら!」 私は涙声で懇願した。でも、彩音は聞く耳を持たなかった。「はい、こっち向いて」 彩音は私のスマホのカメラを私に向けた。私は必死に顔を隠そうとしたけれど、クラスメイトたちが私の手を押さえた。「神林さん、そんなに嫌がることないじゃない。ちょっと写真を撮るだけよ」 彩音の声は、まるで私のためを思っているかのよ
翌日、昼休みの教室で、私は一人で弁当を食べていた。いつものように隅っこの席で、できるだけ目立たないように身を縮めて。「ねえ、神林さん」 突然声をかけられて、私は箸を持つ手を止めた。振り返ると、またしても彩音が立っていた。その美しい顔に、いつもの意地悪な笑みを浮かべて。「なに?」 私の声は震えていた。昨日のことがあって、こんなふうに話しかけられても、警戒心しか湧いてこない。「昨日からみんな、ずっと気にしてるんだけど、神林さんってネットの恋人とメッセージのやり取りをしてるでしょ?」 そう言って、彩音は私の隣の席に勝手に座った。周りのクラスメイトたちがこちらを見ている。私は急いでスマホを隠そうとしたけれど、その手を掴まれた。「みんな、内容が気になるんだって」 彩音の声には、悪意をまとった響きがあった。クラスメイトたちのほとんどが、私と彩音のやり取りを見ている。「そんな……みんなが気にするようなこと……なにもないから」「へえ、そうなんだ」 彩音は立ち上がると、私の後ろに回り込んだ。そして、突然私の肩に手を置いた。「でも、今日も授業中こっそり見てたでしょ? 今度、先生にバレたら大変だよ?」 その瞬間、彩音の手が私のスマホに向かって伸びた。私は反射的にスマホを胸に抱え込む。「触らないで!」「なに隠してるの? そんなに必死になることないじゃない」 彩音の声は甘いけれど、その目は冷たかった。私は立ち上がって彩音から距離を取ろうとしたけれど、彩音は諦めなかった。「みんな、神林さんがチャットのやり取り、見せてくれるみたいよ」 彩音の声が教室に響くと、周りのクラスメイトたちがざわめき始めた。私は顔が真っ赤になるのを感じた。「やめてって、何度も頼んでるじゃないですか」 私の声は涙声になっていた。でも、彩音は止まらない。「そんなに隠すなんて、よっぽど恥ずかしいメッセージを送ってるとか?」
一夜明けて、私は重い足取りで学校に向かった。 昨夜は一睡もできなかった。彩音に秘密を知られてしまったことが頭から離れず、拓翔とのメッセージのやり取りも、いつもの楽しさを感じられなかった。『紀子、今日は大丈夫? 僕はずっと君のことを考えてた』 朝一番の拓翔のメッセージに、私の心は少しだけ温かくなったけれど、不安のほうが大きかった。「正直、怖い。桧葉さんがなにをするかわからないから……」『なにかできることはないか、って考えてるんだけど、いい案が思いつかなくて。話を聞いてあげることしかできなくて、本当にごめん』「拓翔が謝る必要なんてないよ。考えてくれていることが嬉しい」『もしなにかあったら、すぐに連絡して。僕もなにか方法を考えるから。一人で抱え込まないで。いいね?』 拓翔の優しさが、今は逆に辛い。彼にはなにもできないことがわかっているから。それでも拓翔を安心させたくて「うん」と返事を送った。 教室に入ると、彩音はいつものように友だちと楽しそうに話していた。私と目が合うと、彼女はにっこりと笑って手を振った。 その笑顔が、私には悪魔の微笑みに見えた。 一時間目の授業が終わると、彩音が私の席にやってきた。「おはよう、神林さん。今日も彼氏とメッセージしてるの?」 小さな声だったが、その言葉に私は凍りついた。クラスの誰かに聞かれたらどうしよう。「そんなの……桧葉さんは気にしないでください」「昨日はごめんね。でも、本当に面白いものを見せてもらったわ」 彩音の目が意地悪く光る。「お願い、誰にも言わないで。お願いだから」「う~ん、どうしようかなぁ……」 彩音は指を唇に当てて、わざとらしく考えるポーズをした。 意地悪なことを言っているのに、そんな顔も仕草も綺麗に見える。「それにしても、神林さんって意外と積極的なのね。『愛してる』なんて、恥ずかしいセリフをメッセージで送り合うなん